アラキ工務店 京都市右京区:京町家、古民家、大工さんと建てる家

アラキ工務店 株式会社 アラキ工務店

お施っさんの願いをかなえるのが職人の仕事

2001年9月29日発行
隔月刊「木のこころ」第19号

 ご縁があって、愛読している「木のこころ」さんが企画された『こんな想いで木の家をつくる』に寄稿させていただきました。
 また、あわせて弊社が施工した、H邸が別の特集の扉写真に使っていただき感謝することばかりです。 (^^ゞ
 内容は、弊社がいま考えている事を、まとめたものです。少し長文になりますが、おつきあいください。

工務店とお施っさんのお付き合い

 我社は大正14年に創業して以来、地元密着型の工務店として、木造住宅の新築・増改築を手がけてまいりました。現在、社員は23名。そのうち、16名は大工職人で、先代からの教えに従い、仕口加工からアフターまで自社で行っております。
 私は、工務店とは家を通して「お施っさん」の暮らしのお手伝いをするものだと考えております。京都では、町場の大工は、単に住いづくりだけでなく冠婚葬祭の行事を采配するなど、そこに住む人々との結びつきは非常に深いものがありました。
 私が丁稚奉公をした工務店は中京区という京都の中心部にあったのですが、たいていの仕事は自転車で通える範囲だったと思います。当時の工務店はどこも何軒かのお店(タナ)のお世話をしておりました。お店とは、今でいう大家さんのようなもので、借家を何十軒と持っていて、大工は年中そのお店に出入りしておりました。
 
 3月はお雛様の準備。5月はこいのぼりたて。梅雨の前には樋の掃除をしたり、夏祭りの世話をしたり、そういったことを一通りやりました。
 また、お正月前になると、大和天井の上にあるおたなの紅柄塗の手入をやらされました。乾かした練墨に種油を入れて、おせっさんの手の届かないところを雑巾で拭きます。 お施っさんといっても、遠いところにあるわけではなく、たいてい町内だったので、そうした手伝いが出来るのです。

 そうして、普段から手伝いをしていると、家の具合が悪くなったらすぐわかります。そういうときには、親方に話をして、家のメンテをしたものです。
 借家を含めて年中手入れをしていると、お施っさんも相当建築に詳しくなり、痛んだ時でもどこをどう直したらいいのか、だいたいわかります。そうすると、いいかげんな仕事はできないので、丁稚も必死で仕事したものです。
 昔、町内のもめごとは、大工がしきるといわれていました。それほど町内と密接だったわけです。

失われつつある町並みと失われつつある人づきあい

 しかし、戦後、高度経済成長期に持ち家が奨励され、みんな借金してでも家を建て始めました。「家を建てれば儲かる」と、どんどんハウスメーカーが営業範囲を拡大します。その頃から、「地元の小さい業者より、大手の方が安心」という図式が広がってきたような気がします。町場の大工もお店が無くなり、生活していくために、大手の下請けをし、会社から遠く離れたところで仕事をするようになりました。
 これが間違いだったと思います。「大工が自転車で現場まで行く。」というコミュニティが崩壊してしまいました。
 近くでやるということは、大工側もヘタができない。でも、戦後状況が変わり、自分の家を見られたくない。近いから逆に気を使って嫌だ。とか、そういう意識も増えてきました。
 

 施主も変わりました。仕事のわかっているお店から、一般消費者に変わり、「洋風の家がオシャレ」という大量宣伝の影響をうけ、どんどん柱の見えない家が幅をきかせるようになりました。実際、「節のある、色ムラのある木材よりも、塩ビの建材がいい」といわれる方はたくさんおられます。地元の工務店も手間のかかる和風住宅よりも、安価で見栄えのするボード+クロス貼の家を抵抗も無く建ててきました。
 そうしたツケが「欠陥住宅」となって、今表れているような気がします。

今、われわれ町場の大工がやらなければならない事

 今は、京町家も虫食いのようにしか残っていません。京都の中心部にもどんどんマンションが建設されています。町内会も機能しなくなり、家が痛んでも誰に相談したらいいのかわからなくなりつつあります。
 また、腕のいい若い職人が育たなくなりました。坪単価の安い大壁中心の下請け仕事をすれば、どうしても見えないところは手を抜きます。また、建売だと、お施っさんのために仕事をするという意識が薄くなり、単に生活のために仕事をするということになります。
 今では、システム建材の発達やプレカット技術の向上、そしてなにより工作機械の高度化で職人の体は楽になったと思います。当然昔より早く仕事が進むはずです。しかし、「機械化したほど能率があがっていない」のが実情ではないでしょうか。

 今、技術を持っている職人は、伝統技術の担い手として、自分の知識や技を是非若い職人に伝えて欲しいと思っています。私の店には大工職人が16人おりますが、京町家をはじめとする古家の改修等を通じて、1人でも多くの棟梁を育てていきたい。それが私に残された使命ではないかと思っております。

地元の工務店の生きる道

 阪神淡路大震災をきっかけに、建物の構造が注目されるようになりました。「欠陥住宅」という問題を契機に、みかけより中身が重視されるようになりました。これは、長年まじめに仕事に取り組んでいる地元の工務店にとって願ってもないチャンスのはずです。
 また、住宅性能保証制度もできました。これも、「家を建てたら自分の工務店があるかぎり10年でも20年でもお世話をする」という原点に返るチャンスのはずです。
 しかし、現実には「地元の小さい業者より、大手の方が安心」という図式がまた強調されだしています。
 阪神淡路大震災で、多くの貴重な命が失われ、木造建築物の弱さが強調されたが、先人たちが築きあげた仕口で正しく手入れをされてきた住宅はほとんど倒壊しませんでした。むしろ、機械に頼ったいいかげんな建売に被害が集中したのに、木造全部がダメのように誤解され、基準法告示1460号が生れたのです。

 いい仕事さえすれば、お客さんは来るという時代は終わりました。悪法だという前に、建築士・大工はお客様を納得させられる知識を持たなければなりません。われわれは、お客さんに木の住まいの良さを伝え、木造の耐震性を説き、「100年持つのは木の家だよ」と語るところからはじめなければならないのです。

住まいづくりに対する思い

 私は、一工務店を預かるものとして、少しでも古い町並みを守り、育て、木の見える家の良さをわかっていただけるお施っさんを増やしていきたいと思っています。
 そのためには、町家に住んでいる人たちに、町家の良さや住い方、安い改修方法や修繕の仕方をお伝えし、本当は住みやすい建物なのだと実感してもらわなければなりません。これは、作事を預かる我々の責任でもあるのです。
 町家に住む人たちも町並が壊されていくのをあきらめの気持ちでみまもっています。京町家は一軒だけで住むのではなく、町内何軒かの町並があってはじめて良さがでるものなのに寂しい限りです。でも、まだ遅くはありません。京都市の調査では、中京区・下京区ではまだ町家が住まいの50%以上を占めているそうです。
 私は、家族の心が通い合う調和のとれた家並みを取り戻したいと思っています。明治・大正・昭和と時代を通じて修繕し続けられた町家を、壊すことなく平成の時代になっても修繕し続けたい…。そして、さらに、新しい平成の京町家を作り、町並を取り戻したい…。そのためのてだてを模索している毎日です。


 
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