アラキ工務店 京都市右京区:京町家、古民家、大工さんと建てる家

アラキ工務店 株式会社 アラキ工務店

大工棟梁が話す中小企業経営

京都市ベンチャービジネス交流会
京都タワーホテル
2012年2月21日

 京都市ベンチャービジネス交流会(略称KVBC)の主催で、荒木正亘会長の講演会が開催されました。「棟梁」として、そして「会社経営者」としての思いを、ご自身の長い経験をもとにお話しました。
 その内容をここに転載します。

私の生い立ち

 私は昭和8年生まれ、今年で79歳になります。会社はもう息子に譲って、会長という身分ですが、それでも長いこと仕事をしてますと古いお付き合いが続いて、そういったお得意からはどうしても私にお声がかかるので、その度に出ていきます。
 私はもとは中京で商売を始めて、今は右京の梅津におりますが、親はもともと亀岡の出で、 近所で貧乏華族と言われていたそうです(笑)。親父は若い頃に京都に出てきて大工をしておりましたが、千家の圓能斎(えんのうさい)に可愛がってもらって、そこの出入りの番頭になりました。母の家は嵯峨一帯の大工の棟梁の家で、借家も10件くらい持っている大きな家でした。
 そういう二人が結婚することになったのですが、母は大工が嫌やったんです。職人の出入りも激しいですし、下職の者と話をするのが億劫だったようで。それで結婚を機に出て、母のお母さんが建具屋をしていたものですから、そこが持っている借家に二人で入って暮らしていました。
 母がそういう調子でしたんで自分の息子を大工にするのも嫌がりました。私には兄が二人おりますが、上の兄は島津製作所に入って飛行機をつくる技術者になりましたし、次兄は逓信省、今のNTTですがそこに勤めました。そやけどその母が私のまだ子供の時分に亡くなりました。父は大工という仕事が好きやったので、私は奉公にだされました。もし母が長生きしていたら、私は大工になってなかったかもしれません。

私の修行時代

 私が奉公に出たのは中京の間之町通二条にあった『松喜』という店でした。親父は「木殺しの勇さん」と呼ばれて中京では有名な大工でしたから、私も廻りから期待されましたが、最初はまったくできませんでした。というのも今と違って、先輩は手取り足取り教えてはくれませんからね。大工になりたての者を見習いといいますが、その言葉通り、人がやっているのを見て盗んで自分のものにしていくのが当り前でした。
 奉公は5年で、その後に礼奉公があります。それが済まないと一人前になれないんですね。礼奉公は期間が決まっている訳ではなくて、私の先輩には8年や10年礼奉公をしている者もおりました。今は月給制度で奉公にはなりませんが、私は10ヵ月の間、月に3500円の手間賃で勤めました。当時で6日くらいの賃金ですね。それで礼奉公が終わると、「年が明けた」といってお披露目をします。ここまでいくには厳しい決まりがあって、もし中途で辞めてしまうと、京都ではもう一人前の仕事をさしてもらえないんですね。一人前の職人になっても、「アレはどこの年明け」ということがついてまわります。

職人時代

 年が明けてから3年間、いくつもお店を渡り歩きました。半年程やってそこで落ち着いてくると、また次のお店を探して移るという具合に、それぞれのお店のいいところを勉強させてもらいました。「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」という言葉がありますが、良い先輩、良い仲間、いい友達をつかまえるのが大事なことです。良い事も悪い事も、自分の体に自然と染み込んでいくものですから。
 それで方々のお店で勉強させてもらった店の良いところをを集約して、兄弟子、弟と一緒に三人で工務店を始めました。同じ力量の者が三人集まっても誰が仕切るということが自然とおきるもので、誰かがキャップを握ってうまくまわっていくのならと思い、私が親方になりました。当時まだ親父も大工をしていたので引き込んで職人として一緒にやりました。 ちょうど昭和30年代から40年代にかけて、京都市内で下水道が整備され始めました。水道屋さんとの繋がりで、私のところにも水まわりの工事の話がくるようになりました。ところで水まわりというのは、家の中でも一番提案力が問われるところなんですね。というのは、ちょっとしたことで使い勝手が変わるんです。その提案力をかってもらえたのか、お得意も増えました。

 提案力ということで言うと、「便利さ」と「使い勝手」は別のことです。コンセントをぎょうさんつけるのが便利さやとしたら、普段の動作にちょうどいい場所を考えてコンセントを据えるのが、使い勝手を考えるということです。他にも工事はせきなはんな、と昔から言います。これは工事が始まった後で考えが変わってやり直しをすることがないように、そこでいらん費用をかけんようにしなさいということです。そういったところまで考えて、お施主さんと話をするのが提案力ということです。

大工技術の伝承

 棟梁塾という試みを始めて7年目になります。今は棟梁と言われるような一人前の職人でも、日常的に伝統的なものをなぶってないんですね。いざそういう仕事が来た時に先輩に聞こうと思っても、周りにも分かる者がいない。そういう人の助けになるように、一人前の者を集めて、月に2度程座学をしています。
 例えば施主との話で三和土のことを聞かれて、三和土というのは土と石灰とにがりを混ぜたもので、台所仕事で三和土の土間の上に長時間立っていても足が疲れないんですね。10㎝の厚みにしようと思ったら、10㎝の土を入れて5㎝まで叩いて、もっぺん10㎝の土を入れて叩くんです。施主との話の中でそういったことがツーカーで答えられんといかんのですが、なかなか今の若い人は即答できないものです。自分の仕事のことを深く知っているだけでなくて、浅くてもいいので広い知識をもっておく、そのために棟梁塾ではお花やお茶も教えます。関連業種のことまで理解しながら、自分の仕事の配分や能率、下の者への目配りが出来て初めて棟梁です。

信頼される工務店

 戦後に原谷や下鴨が宅地開発されて、うちでも仕事させてもらうことがありました。竣工して7年ほどたってからあるお宅の瓦がポロポロとはがれてきたんです。これはどういうことかというと、市内でも北大路より北は寒さが一段下がるんですね。650℃程度で焼いた普通の瓦ですと水を吸って凍てると割れてしまうんです。それが分かって費用は全部店持ちで、そのお宅の瓦を全部葺き替えました。
 私は施主から信頼される工務店であるために三つのホショウということが大事だと思っています。品質が大丈夫だと責任をもって請け合うことが「保証」で、家を財産として守ることが「保障」です。もし万が一のことがあったときに償うことが「補償」です。
 私とこは町場の工務店で、いわゆる零細企業です。零細企業というのはオンリーワンの人間が集まって、それで上手くまわっていくのではないかと思います。鉋をかけさしたら上手な者、鋸を使わせた上手な者、前に九州から修行に来ていた者の中にはヨキを上手に使う者がおりましたが、あれは私らがマネしようと思ってもなかなか出来ないですね。他にも片づけや段取りの良く出来る者、仕事の早い者や、会社にとって儲けは少ないけどお客さんの対応させたらNo.1という者もおりますね。そういう人間が集まると、今までやった事がない事でもやってみよやないかという声が自然と出てきますし、こっちが細かく指示せんでも仲間同士でフォローしあって仕事をしてくれるものです。

社長の仕事

 会社の中での社長の仕事ということですが、私は「独楽」のようなものだと思います。どういうことかといいますと、外の人から見ると、まわりの者が忙しく立ち回ってる中心でじっとしているように見えて、でも本当は廻りと一緒に回っている。社長がまわっているように見えてはだめで、それは専務の仕事ですね。自分が社長やという思いで会社のために立ち回るのが専務の仕事です。
 社長は会社の外の集まりに顔をだすのも仕事ですが、そういう会に入るのはいいけども入っている限りは、なまけず、おくれず、コマーシャルしない、ということが大事です。会はそこで仕事をとってきたろうというためのもんではないです。自分が会のために何が出来るか考えて汗をかく、そういうことを続けているうち、ふとした時、そういえばあいつは普段こんな仕事しているらしいから一遍聞いてみよか、ということに自然となるものです。

 会長の話を始めて聞きました。僕が生まれる前の京都のことはよくわかりませんが、いまとはずいぶん違うなぁとおもいました。特に、苦労された見習いの頃の話は心に残りました。
 僕も早く、会長のようにいろんな仕事ができて、お客さんと仲良くなれるようになりたいです。これからもますます元気で、活躍されることを祈っています。
(現場監督 松原 豊)
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