アラキ工務店 京都市右京区:京町家、古民家、大工さんと建てる家

アラキ工務店 株式会社 アラキ工務店

アルタンアオラ君の思い出

 もう、かなり記憶があいまいになっているのですが、思い出しながら、お話ししたいと思います。
 話は、昭和60年にさかのぼります。
 当時、私はある生保に入社し、2度目の夏を迎えようとしておりました。社会人になる前は、生保というと「昼間からマージャンができる」とか、「仕事がおわったら、自分の趣味の時間が持てる」とかいうふうに思っておりましたが、実際は全然ちがいました。入社して以来、ほぼ毎日終電。土曜日も早くて夜10時ごろといった生活が続いておりました。
 仕事は、財務貸付の業績分析といったことを若いなりに任されておりましたので、そこそこ充実していたのですが、仕事以外は何もできないという日々がつづいておりました。
 「このままでは、あっという間に年をとってしまう!」
 思い切って、夏休みを9日間とり、周囲の眼をよそに海外旅行をしようと思い立ちました。 で、せっかくいくのなら、ガイドブックに載っていないところがいいんじゃないか…… 中国の内蒙古に「ダラトチ」というところがある。外国人の入城許可証がいるらしいから、なにか『見るもの』があるに違いない。という安易な考えから、内蒙古に行くことに決めたのです。
 学生ではありませんので、旅に余裕がありません。北京に飛んだその日の夕方に大陸鉄道に乗りこみ、万里の長城を越えて包頭という町にやってきました。

 その町は、観光地ではありませんでしたので、特にみるものはありません。町の東の外れにバスターミナルがあるというので、到着した翌日にさっそくいってみることにしました。
 漢字が書けるのが日本人の強み。「ダラトチ」を漢字で書いて、うろうろしていると、「東勝行きのバスにのったら行ける」というのがわかりました。
 30分ほどで町中をぬけると、あとは、ずっと荒涼とした草原と砂漠が続きます。2時間たっても3時間たってもずっと草原と畑ばっかりで、家らしきものはほとんどありません。

 私は、ぼーっと景色にみとれておりましたが、5時間ほどたったころ、バスは少し大きな町に入っていきました。
 なんと、そこは終点ではありませんか!! 「ダラトチは何処なんだ!!」とうろうろしていると、私の周りに人が群がってきます。どうやら、ここは東勝という町で、当時は外国人は入っては行けない地域だったようです。
 警察らしき人たちが、人ごみのなかからでてきました。私は「この町は来たくて来たんじゃない!! ダラトチに行きたかったんだ!!」と必死で訴えたのですが、なかなかわかってくれません。
 まさに、警察にしょっぴかれようとしたとき、アルタンアオラ君がやってきました。
 彼は、片言の日本語ができました。
 警察になにごとか話して、私を引き取ってくれました。
 私に町中を案内してくれました。
 私は、旅に余裕がなくその日の内にダラトチに行きたかったのですが、午前中しかバスの便がなく、その日の午後は東勝という町で過ごすことになりました。
 といっても、ほんとに何にも無い田舎の町です。

 普通の公園にいき、普通の本屋にいき、あとは町中をうろうろしておりました。あまりに暇なので、電話局に行ってリコンファームにトライしました(でも電話は北京に通じませんでした…)。
 今から思えば、たいした名所もなく1日を無駄に過ごすことになってしまったので、ちょっと私の態度が悪かったかもしれません。それでも、彼は精一杯付き合ってくれました。
 彼女とか、友達とか、両親とかを紹介してくれました。
 その日は彼の家(アパート)につれていってくれました。
 95度のモンゴル酒を分けてもらい、私は彼のベッドで寝、彼はソファで寝てくれることになりました。
 翌日、彼の友人と一緒に念願の?ダラトチに向かいました。
  行ってみてわかったのですが、ダラトチに行くにはどうしたらいいのかというと、道路脇に包頭からの距離を示す石が立っていて、42kmと書いてある石のところで下車。そこにはぽつんと家が一軒たっているだけなのですが、接待站へいく立て札があり、道なりに4kmほど歩くとパオが見えてくる。ここが宿泊所で、ダラトチへは、宿泊所からさらに5kmほど行ったところなんです。

 行けないはずです。砂漠の真中であてもなくバスを降りられるはずがない!!(もっとも、ローカルバスで行く人はいないとか……)
 で、ダラトチになにがあるのかというと、別名『響沙漠』とも呼ばれており、沙漠の斜面を滑るとポコポコと、砂が鳴るのだそうです。

 その日の夕方、彼は「東勝の南にチンギスハン稜があるので明日行かないか」と誘ってくれました。
 行くと丸3日かかります。私は、「日本に帰らなければならないので……」といって、断ったのですが、彼は、「そんなに大事な仕事があるのか。帰国日が何故決まっているのか」と、不思議そうに私に聞きました。
 たいした仕事でもないのに帰らなければならないわが身を振り返り少しさみしくなったのを今でも覚えています。
 彼は最後に、中国人のツアー客のバスに私を乗せてくれ、最後まで見送ってくれました。そして、「お互い結婚したら、必ず連絡する」と誓いあいました。


 その後、何度か手紙のやりとりがありました。
 彼が、結婚したこと。子どもも2人生まれたこと(少数民族なので2人でも優遇されるのです)……。
 しかし、私も若かったのか、天安門事件について手紙に書いてからというもの、連絡がつかなくなりました。
 …………………………
 あれから、10年以上の月日がたちました。
 平成9年の2月の事です。
 私は生命保険会社の拠点長という仕事を任されており、毎日目標数字を挙げるべく企業まわりと職員同行をくりかえしておりました。
 ある日、私の担当する営業所に国際電話がかかってきました。
 「支部長さん…… なにか、良くわからない電話が入っているんですけど……」という内勤さんの声に、どうせマンションの斡旋か、大豆の先物だろうと思って電話をとると、なんとアルタン君ではありませんか!!!!
 「どうしたの」と私
 「実は、内蒙古雑技団の通訳で、来週日本に行くんです。良かったら会えませんか」と彼

 私は、成田市の空港近くの営業所を担当していたため、彼が来る飛行機を調べて、空港に出迎えに行きました。
 デスクワークではなく、営業をやってましたので、昼間外出するのはなんとでもなります。
 さすがに、10年もたっています。覚えててくれているでしょうか……
 少し不安でしたが、「おおお」とかいいながら、空港のロビーで二人で抱き合いました。
 ただ、彼はあくまで通訳。仕事で日本にきています。
 雑技団の公演は、もちろん東京都内。
 「僕のホテルに来ないか。今晩のもう」と誘いを受けたのですが、
 「ごめん。僕も仕事で東京まででていけないんだよ」と断ってしまいました。
 あああ、あの時会社を休んででも行っておけば良かったなあと、今でも後悔しています。

このページの先頭に戻る